『ガスライティングという支配――関係性におけるトラウマとその回復』(著:アメリア・ケリー/訳:野坂祐子)
はじめに
ガスライティングは、女性に対してよく起こる情緒的コントロール方法のひとつで、不公平な関係や社会にひそむジェンダー不平等をより深刻にしうるものです。ガスライティングのような情緒的トラウマは、女性の人生のあらゆる領域で生じます。たとえば、恋愛関係や家族、友人といった親しい人との関係性をはじめ、医療現場や教育環境、職場、もっと広く社会のいつどこでも起こりうるできごとなのです。
わたしは総合的にメンタルヘルスをみていくセラピストとして、私設のカウンセリングオフィスでの長年の経験から、さまざまな女性とともにトラウマからの回復に取り組む機会に恵まれてきました。それぞれが語る内容や体験は異なるものの、どの女性もこころから望んでいたことは、これに尽きます――安全であること、理解してもらうこと、話を聴いてもらうこと。わたしが心理臨床において目指しているのは、「求める人ならだれでもセラピーが受けられる」ということです。セラピーやセルフケアのツールをもっと利用しやすくするにはどうしたらよいか、それをずっと考えてきました。適切な資源とツールがあれば、セラピーに通うかどうかにかかわらず、人は十分に癒されることができます。ガスライティングから回復するうえで何より重要なのは、「わたしはひとりではない」と知ることなのです。
ガスライティングに気づき、自分自身を守り、セルフケアに専念するための方法が学べれば、どんなに困難な状況であったとしてもガスライティングに打ち克つことができます。ガスライティングによって生じた歪みが、回復のためのワークと癒しによって取り除かれれば、自分の豊かな感受性と情緒的な強さに気づくはずです。さまざまな困難に耐え抜くことができる能力は、あなたを支配しようとする加害者に「あなどれない」と思わせる抑止力になります。
ガスライティングを克服した女性たちは、コントロール感を取り戻し、傷つきを癒し、前進していきます。こうした人たちに共通してみられる特徴がレジリエンス[トラウマからの回復力]です。加害者による情緒的コントロールを切り抜けると、ガスライティングのあらゆるサインへの直感が働きやすくなり、自分のなかに警報システムができあがります。「何かおかしい」と感じたときに、「わたしがおかしいのかも」と自分を疑うことがなくなります。そのため、ガスライティングのサバイバー[トラウマを生き抜いた被害者]は、自己価値とセルフエンパワメント[自分自身を理解して、自分の力を引き出すこと]がより強く感じられるようになり、他者からの承認を求めなくてもよくなるのです。
本書の使い方
この本を読むとき、回復への旅をコントロールしているのは、あなた自身です。各章では、さまざまなセラピーの技法や課題、ツールを紹介します。たとえば、日記をつけること、スキルを身につけるためのシート、セルフケアのためのワークなど。「自分には関係ないかな」と感じる部分があっても、ほかの章が役立つかもしれないので、章を選びながら読んでください。もし、あなたが今まさに暴力を受けていたり、「もしかして、これってガスライティング……?」と思うふしがあったりしたら、最初から読むことをおすすめします。必要に応じて、休憩をとりながら読み進めてください。自分の限界を知り、それを尊重することは、セルフラブ[自分を愛する]というすばらしい行為です。
本書は、3部構成になっています。はじめに、さまざまなタイプのガスライティングについて説明します。そして、ガスライティングに耐えてきた女性の事例をくわしく見ていきましょう。あなた自身の癒しとセルフエンパワメントの旅に発つためのワークは、そこから始まっているのです。それぞれの部で、ガスライティングによるトラウマからの回復に役立つ内容が書かれています。
第Ⅰ部は、さまざまな関係性や力関係のなかで起こりやすい、いろいろなタイプのガスライティングについて理解し、「あれはガスライティングかも」と気づけるようにします。同時に、安全を高めるための行動プランも紹介します。さらに、ガスライティングの多様な事例を通して、女性たちのさまざまな体験を知るという学びの機会を提供します。
第Ⅱ部では、過去のトラウマや不健康な対人パターンを自覚することで自分の癒しを促進するセラピーのワークと技法を紹介します。どれもセルフコンパッション[自分への思いやり]とセルフフォーギブネス[自分へのゆるし]に焦点をあてています。疲労や空腹、こころに余裕がないようなストレス状態にあるときは、ワークに取り組むのを避けましょう。
第Ⅲ部では、自尊心とセルフラブを高めるためのワークと技法を紹介します。それによって、ありのままの自分を受け入れられるようになるとともに、これから先の人間関係がうまくいき、自信と信頼をもって人生を歩んでいくためのゆるぎない自己価値が確立されます。
訳者あとがき
「ガスライティング」という言葉をご存じですか? もし、聞いたことがなかったとしても、それがどのようなものかを聞けば、「それなら知ってる!」と思う人は少なくないはず。ガスライティングとは、「おまえがおかしい」「どうかしている」といったネガティブな言葉を浴びせることで、相手に「わたしがおかしいんだ……」「わたしはどうかしてしまったのに違いない……」と自信を失わせ、混乱させて、相手を支配しようとするコントロールのことです。
ガスライターと呼ばれる加害者は、相手を殴ったり、脅したりするような〈あからさまな暴力〉は振るいません。一見すると、指摘や注意、あるいは心配や助言といった〈相手のために〉している行為なので、それらは暴力どころか、親切や関心、ときに愛情であるかのように映ります。しかし、それによって相手のパワーを奪い、自尊心や自己コントロール感を失わせ、結果的にガスライターの思うままに相手を従わせるのですから、まぎれもない暴力です。恋人や配偶者などの親密な関係性のなかであれば、ドメスティックバイオレンス(DV)にあたる行為ですし、職場で起きたものならば、パワーハラスメント(パワハラ)ともいえます。
本書でも説明されているように、ガスライティングという言葉は、第二次世界大戦前に英国で演じられた大衆劇をもとに、のちに『Gaslight(ガス燈)』として上映されたモノクロ映画に由来します。アカデミー賞に輝き、サスペンス映画の傑作とも謳われるこの作品では、ロンドンに移住した新婚カップルの妻が、夫の小細工によって次第に精神を衰弱させられていくプロセスが描かれています。夫にはある魂胆があり、それに対する疑惑の目をそらすために、妻のもの忘れや盗癖を指摘しますが、実は、それらはすべて夫のでっちあげ。ありもしない〈問題〉をまるで妻が起こしているかのように振る舞い、混乱から情緒不安定になった妻に対して「君はどうかしている」と嘆いてみせます。屋敷内のガス燈をちらつかせておきながら、部屋の明かりがゆらめく様子を不安がる妻の姿を見てはこっそり嗤う――こうした「操作を用いた対人コントロール」がガスライティングと名づけられ、2010年代半ばから米国で広まり、流行語になりました。日本で紹介されるようになったのはごく最近、2023年頃からのようです。
まだ日本ではなじみの薄い言葉ですが、何もしていない相手の〈落ち度〉を作りあげ、当然の指摘であるかのように相手を非難し、相手が反論すればそれを根拠に責め立てるという暴力は、決してめずらしくないものでしょう。これまで「モラルハラスメント(モラハラ)」と呼ばれてきた行為には、ガスライティングの要素も含まれていたといえます。ただ、一般にモラハラが加害者の不機嫌や暴言など被害者の面前でなされる言動を含むのに対して、ガスライティングは被害者に気づかれにくい方法が用いられるという特徴があります。「俺の言うことを聞け」と怒鳴るDVとも、自分の存在をアピールするストーキング(ストーカー行為)とも異なり、気づかれないようにしながら相手をコントロールするガスライティングは、非常に巧妙なかたちの暴力といえるかもしれません。それゆえに、被害者は「自分に何が起きているのか」がわからないまま、心身ともに消耗してしまいます。
本書の著者であるアメリア・ケリー博士は、心理臨床家として、北米でおもに女性のトラウマに対する介入や支援をされています。豊かな臨床経験をふまえた本書は、たくさんの事例が紹介されており、ガスライティングの特徴とその影響、そして回復の道筋が具体的に示されています。原題は“Gaslighting Recovery for Women: The Complete Guide to Recognizing Manipulation and Achieving Freedom from Emotional Abuse(女性のためのガスライティングからの回復―情緒的虐待による加害者の操作を理解し、自由を手にするための完全ガイド)”とあるように、読者に女性を想定した回復のガイドブックとして2023年に出版されたものですが、本文にも書かれているように、ガスライティングの被害者は女性が多いもののそれに限りません。本書には、女性に向けたメッセージも含まれていますが、多様な立場やジェンダーの人々にも役立つと思われます。
というのも、ガスライティングの被害による影響は、加害者であるガスライターと出会うまえの家庭環境なども関係しているからです。養育者から虐待やネグレクトを受けたことがなくても、子ども時代に、家族の不和や葛藤によってつねに緊張し、周囲の期待に応えるべく必死に生きてきた人は、自分のニーズよりも相手のニーズを優先しがちで、自己犠牲もいとわないことが少なくありません。そうした傾向は必ずしも悪いばかりではなく、他者の感情への敏感さや優しさ、献身的な行動にもつながります。ただし、そうした自分の傾向や対人関係のパターンを自覚しておかないと、ガスライティングに対する脆弱性を高める、つまり安全ではない関係性に陥りやすくなります。
だれでも、少なからず子ども時代の傷つきを抱えています。ガスライティングの被害者だけでなく、あらゆる人がこうした関係性の“罠”ともいえるコントロールの問題に向き合うきっかけになればと思い、この本を日本で紹介することにしました。
本書の特徴は、すでに述べたように、関係性における暴力をガスライティングという新たな概念から捉えたことといえます。また、対人関係における傷つきをトラウマの観点から理解し、トラウマについて知識を得ることで「自分に何が起きているのか」を理解するトラウマインフォームドケア(Trauma Informed Care:TIC)のアプローチがとられていることも挙げられます。専門家によるセラピーが助けになるのと同様に、トラウマについて知るための心理教育と対処法を練習するTICは、関係性の“罠”から抜け出し、自信と自由を取り戻していくのに役立ちます。そして、回復において鍵となるのが境界線(バウンダリー)です。他者の支配とコントロールに気づき、自分自身を守るために健全な境界線を設定することは、だれもが安全に生きるうえで欠かせません。これらの情報は、ガスライティングのみならず、さまざまなトラウマからの回復に有用でしょう。
なお、翻訳にあたっては、原題にある“emotional abuse”の訳に悩みました。直訳すると〈情緒的虐待〉であり、ガスライティングが被害者の心情を揺さぶり、情緒不安定な状態にさせ、自己コントロール感を奪っていくパワーの乱用(abuse)であることを的確に表す言葉です。しかし、日本語の「虐待」は、一般的には「児童虐待」と同義で用いられ、子どもではない場合に限って「高齢者虐待」など対象が明記されます。そのため、ガスライティングの典型であるパートナー間の暴力を「虐待」と呼ぶことは、現状では違和感をもたれるかもしれません。
さらに「情緒」という言葉も、日本語では風情のような深みのある雰囲気というニュアンスでも用いられますが、ここでいう情緒とは心理的な状態を指しています。感情が一時的なこころの動きを指すのに対して、情緒は持続的なこころの状態を意味します。つまり、情緒的虐待とは、こころの状態をコントロールし、その人自身を失わせるほどのダメージをもたらすものなのです。
こうした日本の現状と用語の意味から、訳書では、情緒的虐待を〈情緒的コントロール〉と表し、関係性における対人操作というガスライティングの特徴をわかりやすく紹介することにしました。また、原著では女性を想定した呼びかけや説明になっているところも、ジェンダーによる権力の不均衡に基づく内容を除いて、性別を限定しない表現に一部変更しています。
本書が「何かおかしい」と感じながら苦しんでいる方々にとって、「何が起きているのか」に気づくヒントとなり、変化と回復を後押しするものになることを願っています。本書にはTICで重視されるトラウマ反応の心理教育と基本的な対処法が書かれているのに加えて、弁証法的行動療法(DBT)による思考への介入や身体へのアプローチであるヨガなど、回復を促進するさまざまな技法が紹介されています。必要に応じて、専門家のケアを受けながら、セルフケアとして取り組まれることをお勧めします。
ガスライティングを含め、さまざまな対人暴力は、加害者-被害者の個人の問題ではなく、社会における権力の不均衡や差別構造と密接に関わっています。そのため、あらゆる関係性のなかでガスライティングは起こりえます。すべての人が自分の言動を「ガスライティングかもしれない」と見直すことも求められるでしょう。だれもが関係性の“罠”と無縁ではありません。自分の境界線を自覚し、お互いの境界線を尊重すること――それが他者のコントロールを手放し、暴力のない安全な社会につながる一歩になるはずです。
手にとってくださった読者のみなさまにこころよりお礼申し上げるとともに、翻訳を勧めてくれて完成までサポートしてくださった日本評論社の木谷陽平さんに感謝いたします。
2024年4月 野坂祐子
目次
はじめに
第Ⅰ部 ガスライティングについて知ろう
第1章 ガスライティングとは何か?
「ガスライティング」の用語の由来/ガスライター(加害者)/ガスライティングのテクニックと方略/ガスライティングの7つの段階/ガスライティングの影響
第2章 家族
事例1 過保護な父親/事例2 母親からのネグレクト/事例3 振りまわす姉/まとめ――家族のなかでガスライティングが起こるとき
第3章 親密な関係性
事例1 非社交的な婚約者/事例2 ナルシシスティックな加害者/事例3 ロイヤリスト/まとめ――支配とコントロールのサイクル
第4章 社会
事例1 グーグル先生と妊婦/事例2 シングルマザー/事例3 唯一の黒人学生/事例4 広報マネージャー/まとめ――権力のある側が話を聞くことを学ぶ
第Ⅱ部 回復
第5章 過去のトラウマと向き合う
TRAUMA(大文字のトラウマ)vs. trauma(小文字のトラウマ)/子ども時代のトラウマに気づくACEチェック/トラウマボンドとは何か/トラウマがアタッチメントに与える影響/主観的不安尺度(SUDS)/まとめ
第6章 自分の感情を守る
情緒的コントロールのタイプを知る/共依存的なパターンに気づこう/葛藤解決のためのDEAR MAN/女性のための境界線設定/情緒的な個体化と同意能力/ファクト・トラッキング/まとめ
第7章 不健全なパターンと行きづまりを打開しよう
フォーカス瞑想/思いやりのあるセルフトークで変化を起こそう/選択の単純化/習慣化プラン――専門家によるヒントとコツ/まとめ
第Ⅲ部 目標に向かって前進する
第8章 自尊心と自信を高める
自分自身とデートする/前向きに進み、健康になるための呼吸法/パワーポーズ/知恵と感謝の実践/わたしのストーリーを語る/まとめ
第9章 セルフラブを実践し、本当の自分を受け入れる
自分の「パーツ」から学ぶ/EMDRスパイラル・テクニックでストレスに立ち向かう/セルフラブのためのアートセラピー/セルフラブ・ヨガ/痛み、ストレス、トラウマのためのEFTタッピング/まとめ
第10章 信頼と健全な人間関係を確立する
自分の直感を信じる――マニプーラ・チャクラ・ワーク/内的ゆるしから外的ゆるしへの6段階/投函しない手紙/コンパッション瞑想/譲れないものリスト/まとめ
おわりに/訳者あとがき/引用文献
書誌情報
- アメリア・ケリー 著 野坂 祐子 訳
- 紙の書籍
- 定価:税込 2,420円(本体価格 2,200円)
- 発刊年月:2024年7月
- ISBN:978-4-535-56428-2
- 判型:四六判
- ページ数:272ページ
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