(第4回)いち早く法学を志す女性に門戸を開く/明治大学博物館企画展「女性法曹養成機関のパイオニア――明治大学法学部と女子部」

すごい!大学の図書館、博物館| 2024.08.26
大学は、学術研究と教育の最高機関。それぞれの大学が所蔵している専門性の高い資料、史料、蔵書などの貴重なものたちを、愛でないなんてもったいない!このコーナーでは、全国にあるすごい大学の施設、そしてそこにある「おたから」をご紹介していきます。学生・教育関係者・研究者にはもちろん、一般に公開されているものも取り上げていきますので、どうぞお楽しみに!

(不定期更新)

今回は、明治大学駿河台キャンパスにある明治大学博物館の企画展「女性法曹養成機関のパイオニア――明治大学法学部と女子部」を訪ねました。

明治大学博物館は、明治大学駿河台キャンパスのアカデミーコモン地下1階にあります。

JR御茶ノ水駅御茶ノ水橋口から、明大通りを神保町方面に歩いていくと、右手側に大きな階段があります。その階段を上がった先にあるガラス張りの建物がアカデミーコモンです。入り口には、明治大学の創立者岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操のレリーフが置かれています。

アカデミーコモン入口

建物に入り、奥左手側にあるエスカレーターで地下1階に下りると、博物館です。

連続テレビ小説「虎に翼」(NHK)

「女性法曹養成機関のパイオニア――明治大学法学部と女子部」は、地下1階に下りるエスカレーターを降りた正面にある「特別展示室」で開催しています。

博物館入口(左側が特別展示室、右側が常設展示)

現在連続テレビ小説「虎に翼」(NHK)が放送されていますが、このドラマの主人公のモデルが、日本で初めての女性弁護士の1人であり、女性初の判事、女性初の裁判所長となる三淵嘉子さんです。三淵さんは明治大学の卒業生であり、明治大学は法学を志す女性にいち早く門戸を開いた大学です。

この企画展では、明治大学専門部女子部の創設期に関係する貴重な資料を見ることができます。

今回編集部は、明治大学史資料センター所長であり法学部教授、そして「虎に翼」の法律考証を担当されている村上一博先生に、解説をいただきながら、展示を見て回りました。

まず目に飛び込んでくるのは、連続テレビ小説「虎に翼」(NHK)で、俳優のみなさんが実際に身につけた衣装です。

こちらは、同時開催中の「連続テレビ小説『虎に翼』展」(NHK財団主催)の展示です。編集部が訪問したときは、ドラマ放送開始時(明律大学編)のものが展示されていました。

奥には明律大学の印象的なステンドグラスのセット。こちらは、段の上に上がって写真が撮れる、フォトスポットになっています。

明律大学のステンドグラス

2024年7月には展示の入れ替えをしたとのことで、一度行った方もぜひまた訪れてみてはいかがでしょうか(9月上旬にも再度展示替えの予定。10月28日展示終了)。

企画展「女性法曹養成機関のパイオニア――明治大学法学部と女子部」

さて、ここからは企画展「女性法曹養成機関のパイオニア――明治大学法学部と女子部」です。展示の内容と村上先生による解説をいくつかご紹介します。

最初に、「文官高等試験行政科を突破した女子部卒業生 渡辺美恵――女性の労働問題・人権問題をライフワークに」という文章が紹介されています。

村上先生:比較的新しくわかった、渡辺美恵さんについて紹介しています。渡辺さんは、戦前高等試験行政科に合格した初めての女性です。しかし合格しても女性行政官の待遇・地位は全くよくならなかったのです。山川菊枝さんらの尽力があって、戦後になってようやく改善された。渡辺さんのような人に焦点を当てるのもよいかもしれませんね。ちなみに、戦前、女性外交官はゼロでした。

女性が高等試験を受験できるようになって、行政官になれたとしても、社会や制度が追いついていなかったことがわかります。

村上先生:当時女性が仕事をもつことは大変だったでしょう。法律が変わっても体制が全然できていませんし、女性が仕事をもつなんてあり得ないというような固定観念があったでしょう。現在でもそのような固定観念をもっている人がいますよね。

女子部の校舎

(2代目)女子部校舎図面

女子部の校舎図面が展示されています。生徒用トイレが個室に分かれていることから、女性用トイレが設置されていることがわかります。他方で職員用のトイレは男性用です。

村上先生:きちんと女性用トイレがあったことを示したいという趣旨の展示です。現在の大学の学生募集でも、トイレがきれいかどうかはとても重要な問題なのです。女子部の校舎は小屋のようなものではなく、きちんとした校舎でした。石炭で儲けた佐藤慶太郎さんなどが数千万円をポンと出してくれて。女子部は財政的に苦しかったですが、また別の人が援助してくれたりなどして。そういうのがなければ存続は難しかったでしょうね。

カリキュラムと学生生活

法学部と女子部法科のカリキュラムが紹介されています。女子部のカリキュラムには、法学部と同じ科目も多く並んでいます。当時の明治大学の教員は大審院判事などが多かったようです。女子部の教員は学部と兼務している場合が多く、最新の学説に触れることができたと考えられます。

村上先生:当時法学部に入れば1年生でも高等試験を受験できますから、法学部に入ったらすぐに高等試験を受けられるよう、女子部は相当充実したカリキュラムを組んでいたのです。一生懸命勉強したと思います。卒業できたのは半分以下でしたけれど。

第7回明治大学女子部卒業式「答辞」(卒業生総代 渡辺美恵)

こちらは、7期卒業生総代渡辺美恵さんの答辞です。

村上先生:高等試験行政科に合格するくらいですから、相当優秀だったでしょうね。

学生証・高等試験受験票

法学部と専門部女子部の学生証、高等試験司法科の受験票の展示もあります。

村上先生:これは新しく見つかったものです。女子部の学生証は赤いですね。授業料を納めるとハンコが押されます。

明治大学法学部・専門部女子部卒業生の活躍

高等試験合格一覧のパネル展示では、明治大学が輩出した女性合格者の名前を知ることができます。

村上先生:早稲田大学と九州帝国大学出身の2人を除いては、みんな明治大学専門部女子部の出身者です。鍛冶千鶴子さんや野田愛子さんなど、戦後の合格者は活躍しますが、戦前の合格者はたいへんだったようです。終戦の年、昭和20(1945)年にも試験がありました。石渡満子さんが戦後に司法修習してすぐに判事補に採用されています。

大学新聞と女子部

当時の大学新聞「駿台新報」の女子部についての記事も展示されています。女子部学生が学部に入ります! と大々的に宣伝しています。

女子部卒業生の学部入学許可を伝える「駿台新報」

村上先生:文部省が女性を大学に入れることを推進していました。男性は戦争で死んでいきますから、女性を入れなければしかたがない。残念ながら、女性の権利が向上するときにはそういう理由が多いのです。

中田正子の高等文官試験司法科試験筆記試験合格を伝える「駿台新報」

中田正子さんが高等試験司法科の筆記試験に合格したときの記事です。

村上先生:まるで合格したかのように盛り上がったようです。このときは、口述試験で落ちてしまいますが。

法服

展示室の中央には、中田正子さんの法服(戦前のもの)のレプリカと、現在の法服が展示されています。戦前は裁判官だけでなく、弁護士・検察官も法服を着用しました。現在は裁判官だけが法服を着用します。

法服

特別展示室の出口には、村上先生が推薦する、三淵嘉子さんの関連書籍の展示があります。『三淵嘉子と家庭裁判所』『家庭裁判所物語』『三淵嘉子・中田正子・久米愛 日本初の女性法律家たち』(いずれも日本評論社)も置いていただいています!

三淵嘉子関連書籍

ここで紹介した以外にも、女子部に関係するさまざまな資料が展示されています。

常設展示(大学史展示室)

女子部についての展示

特別展示室の後は、大学史展示室の常設展示を見るのもお忘れなく。常設展示の中には、当時の女子部制服の写真、女子部設立趣意書などの展示があります。当時の学長、横田秀雄の挨拶の展示もあります。

展示の中には、戦前の女子部の制服の写真があります。しかし、当時の女子部の学生の写真を見ると、自由な服装をしています。

女子部校舎

村上先生:当時女子部にも制服がありました。それでも制服を着なかったその自由さは明大生らしいと言われますが、実際は外を制服で歩くことが問題だったようですね。男性は制服を着て外を歩いても恥ずかしくないですが、女性は違ったようです。外聞のため、どうしても着物を着ることになる。戦争期に入るころですが、着物はおしゃれなものを着ていたようですね。

編集部のおすすめは、常設展示の奥にある体験・学園生活コーナーです。昔の校舎で使用されていた机や椅子などを体験できるコーナーですが、ここでは、6本の動画が上映されています。戦前の明治大学の法曹養成や三淵嘉子さんについて解説した動画のほか、明治大学を卒業して法曹界に進んだ方や生前の三淵さんとかかわりのあった方のインタビュー動画が視聴できます。これらの映像は企画展終了後に明治大学ウェブサイトでも公開される予定とのことです。

村上一博先生インタビュー

明治大学専門部女子部の創設について

戦前の教育制度(清永聡『三淵嘉子と家庭裁判所』〔日本評論社、2023年〕ⅱ頁より引用)

――創設のころのことを教えてください。

女子部の設立については、実際は、大正の終わりから徐々に進められていたようです。そのころから弁護士法の改正が俎上にあがっていて、確証はありませんが、並行して進んでいったと考えられます。

弁護士法改正の委員会に、穂積重遠(東京帝国大学教授)、松本重敏や、明治大学出身の社会派弁護士が入っていましたから、そこから情報を得て、弁護士法の改正で女性も高等試験司法科の試験を受けられるようになりそうだとわかっていたのです。それで、女子部を思い切って作ろうと。また、文部省も、女性に高等教育を開いていこうという方針を出していましたから、そこで穂積重遠が、弁護士法の改正と、文部省の動きを察知して、明治大学に声をかけたのです。たまたま当時の学長が、横田秀雄という開明的な大審院長でしたから、彼がやろうと言ったのでしょうね。そして、保守的な憲法学者ですが女子教育には熱心だった松本重敏、彼らを中心として、一気に女子部の開設までもっていったということです。

昭和4(1929)年、日本が戦時体制に入る直前です。よくこんなときに女子部をつくったなあと思います。

――2年後が満洲事変という時期ですね。

そんな時期にあえて女子部をつくることについて、大正デモクラシー期の、女性を解放していくという積極的な姿勢の影響は確かにありました。市川房枝さんたちが女性の参政権運動をすでに展開していました。明治大学がある神保町は女性解放運動の中心地でした。

そのような女性解放運動の影響ももちろんあったのですが、他方で、戦時期にかけて女性の教育をある程度やっておかなければ国が支えられないとか、(男性たちは兵隊にとられていくわけですから、)補充要因、つまり男性の「代わり」としての女性という考えもあったようです。あまり表には出されませんでしたが。

そういうわけで、全国に先駆けて、明治大学に女子部がつくられたのです。

――私立大学としては初めて女性を受け入れたということですが、そのころ、ほかに女性が法律を学べる大学はあったのでしょうか。

女性に聴講を認めていた大学は、同志社大学、日本大学などいくつかありました。ただ、聴講生としてなのです。それでは高等試験の受験資格を得られないのです。

明治大学専門部女子部の場合は、3年経ったら法学部にそのまま入れます。法学部に入れば高等試験を受けられますから、高等試験受験のための、ほとんど唯一の道ということになります。

――司法科試験を受けるには、高等学校または文部省が特に指定した専門学校の卒業生、あるいは大学の学部在学中か卒業生でなければならなかったからですね。

そうです。入学試験はそんなに難しいものはやっていなかったようです。簡単な小論文があったようですが、高等女学校を卒業していれば、問題ないですよね。

――女子部1期生の募集はどのように周知されたのでしょうか。

それは、新聞広告です。大学の学生募集の新聞広告は明治時代からやっています。東京の主要な大学では地方にもたくさん記事を出していました。

女子部のことも新聞にはかなり載っていました。もうすぐ明治大学に女子部ができる! とか。あちこちの新聞に載っていますから、それで周知されたのでしょう。東京だけでなく全国から多くの人が集まりました。よく来たと本当に思います。

女子部に入学した学生たち

――昭和4(1929)年4月、女子部が開校します。入学したのはどんな人たちだったのでしょうか。

最初の年、女子部法科には93人が入学しました。卒業時は約半分の50数人に減り、法学部に進んだのは15人だったのです。2期生からの人数ははっきりしていません。

しかも1期生が入学したころは、弁護士法が改正されていなくて、まだ高等試験を受けられない状態でしたからね。1期生の立石芳枝さんのように、勉強を続けるために東京帝国大学に進んだ人もいます。それから、高窪静江さんも1期生です。高窪さんはお父さんが中央大学で教えていた商法の大家です(高窪喜八郎)。

――やはり入学できたのは、家が裕福で経済的なバックボーンがあり、家族に理解がある女性たち、ということになるでしょうか。

5期生には秋田から来た女性がいましたが、お父さんは弁護士でのちに秋田市長にもなる人です。彼女のお父さんは東京に娘たちを全員下宿させ、高等女学校に通わせていたのです。下宿といっても現在とは違って、まかない付きで、女中さんもいるような環境です。そこから女子部に入ってくるわけです。あなたのことは弁護士にする、という親の意思が非常にはっきりしています。やはり、当時はそういったことができる家の女性たちしか入学できなかったでしょうね。家庭に恵まれていて理解があって。結婚をすぐにしろと言うような親だったらダメですね。年齢的にも、いわゆる「適齢期」でしたからね。

――1期生の3割が30歳以上だったことには驚きました。

当時30代といえば、結婚歴もあるでしょうし、子どもが何人もいたりしてもおかしくないでしょう。どうしてそういう人が東京に出てきて、法律を学ぼうと考えたのか……。もう少し資料が見つかれば明らかになるかもしれません。ドラマの梅子さんは、30代以上の女性もいたという一つの例ですね。夫からいじめられていて、そのために法律を学ばなければ……と、そのような方もいたんじゃないでしょうか。

留学生たち

――ドラマでは朝鮮からの留学生が登場していましたね。明治大学にも当時留学生が来ていたのでしょうか。

大学の記録では、朝鮮、台湾、中国、そして満洲からも留学生が来ていたことがわかっています。三淵嘉子さんと同じ4期生には2人の留学生がいて、そのうちの1人は朝鮮から来ていました。留学生の名前はわかっていますが、彼女たちがその後どうしたかは、残念ながら不明なのです。今後、名簿を元にした調査が待たれます。女子留学生も高等試験は受けていたようです。合格者はいませんでしたが、合格していたら制度上は弁護士になれていたでしょうね。

この時期、留学生は、明治大学だけでなく、東京の大学にはたくさん来ていたのではないでしょうか。朝鮮の独立運動の拠点にもなっていきますから。

――「人権弁護士トロイカ」と呼ばれる1人、金炳魯(キム・ビョンノ)さんなど、朝鮮の多くの人権派弁護士は、明治大学の出身ですね。彼らが留学していたときの日本人学生との交流をずっと大切にしてこられたようですね。

そうですね。明治大学はかなり早い時期から留学生を受け入れていました。明治大学と、法政大学、早稲田大学、日本大学の4校でほとんどの留学生を受け入れたようです。本当に大勢受け入れています。それも、悪く言えば、日本人が少なくなっていくので、その分を留学生で埋めようという、現在も少子化でそういう傾向がありますけれど、それと同じ発想です。

女子部で教鞭をとった教授陣

――東京帝国大学教授の穂積重遠が民法を教えているなど、開校時から著名な教授陣がそろっていますね。

明治大学の教授陣は、もともとはボアソナードの弟子たちで、フランスから帰ってきた人たちが中心でした。ですから、実は東京大学とのつながりはあまりありません。司法省法学校の人たちが中心です。司法省法学校の出身者は、裁判官が多く、彼らが偉くなって明治大学の教員になるケースが非常に多かったのです。

大正から昭和のこのころにかけて、明治大学では、主に司法省法学校出身の大審院判事が実権を握っていました。やはりフランス法系の人たちです。たとえば、民法を教えていた横田秀雄は大審院判事ですね。現在と違って、当時は、大審院判事であっても講師として大学で教えることができました。このころの女子部には、裁判官と、穂積重遠が教えていた関係で東京大学系の若手の教員が教えに来ていました。この若手の教員は後に大家になっていく人たちです。

――豪華な教授陣がそろえられたにもかかわらず、創設から数年、女子部の学生数がだんだんと減っていったのはなぜでしょうか。

やはり高等試験合格者が出ないことですね。

女性も弁護士になれますよ! と言って大々的に募集したのに、弁護士法の改正がなかなか進まず高等試験を受けられない状況で、ようやく昭和8(1933)年に弁護士法が改正されても施行は3年後の昭和11(1936)年、1期生の卒業は昭和10(1935)年でしたから、高等試験を受けるまでに1年以上も待たなければならない。そうなると誰も高等試験を受けないのです。先ほどの立石さんが東京帝国大学に行ったのもそうですね。

そういう意味では、三淵さんはちょうどよかったですね。法学部に入ったときはまだ高等試験を受けられませんでしたが、2年生のときには受けられるようになっていましたから。三淵さんは卒業した年の試験を受けて合格しています。ドラマの寅子と三淵さんの時系列は一致しています。ちなみに三淵さんは在学中に2回試験を受けられるはずですが、受けたかどうかはわかりません。法務省に確認しましたが、受験名簿が残っていないそうです。

学生生活

――当時の高等試験司法科の問題などは残っていますよね。

残っています。1行問題です。とくに憲法の問題は、出題者が極右の憲法学者です。当時美濃部達吉の天皇機関説事件が起こったころですが、そのような問題が出るということは、「踏み絵」のようなものでしょうね。高等試験を受けるような人たちはみな美濃部で勉強していて、天皇機関説は当たり前だと思っていたはずです。それでも答案は、天皇機関説とはまったく逆の考えを書かなければならなかったでしょう。ドラマに出てきたよねさんに表れていますが、妥協しないと通らない試験だったのです。

三淵さんが受験した昭和13年の高等試験司法科の筆記試験問題(『最近高等試験行政司法外交各科問題集 昭和14年度問題収録 増訂改版13版』〔育成洞、1939年〕国会図書館デジタルライブラリより引用)

――学生数が減ってしまい、女子部の存続が危うくなった時期がありますね。

女子部の募集停止を取り下げてほしいと、在校生、卒業生が反対運動を繰り広げました。時期的にはドラマよりも少し前の話でした(昭和12〔1937〕年初め)。女子部の受験者数も減っていて、高等試験合格者も出ませんし、早い段階でたたんでしまおうかという話はありました。主に経済的な問題です。

そこに奇特な人が現れて寄付をしてくれたりしたため、経済的に持ち直し、廃部を免れたのです。

昭和13(1938)年、つまり三淵さんたちが高等試験に合格した年が、入学者数16人で最も少なかったときです。三淵さんたちが合格したことで、翌年から入学者が40数人にまで増えます。ここからは割と安定して増えていきました。三淵さん、中田正子さん、久米愛さんの3人が合格しなかったら、つぶれていたでしょうね。

――当時使っていた教科書などの記録はあるでしょうか。

当時使っていた教科書の記録はとくにありませんが、担当した教員たちが自身の執筆した本を使っていたのではないかと推測しています。ドラマではそういったものを机の上に積んでいましたね。

高等試験対策のための講座はありませんでしたが、学生心得や受験参考書のようなものはあったようです。

――模擬裁判などは行われたのでしょうか。

入学式のときに行われた模擬裁判は写真が残っています。ドラマでは女子部存続のために模擬裁判をしたという話でしたが、実際はそうではなく、PRとして入学式で行ったようです。

――最後に、女子部の卒業生の進路、活躍について教えてください。

1期生から3期生までは、高等試験司法科の合格者はいないわけですが、先ほど話に出た1期生の立石芳枝さんは女性で初めて東京帝国大学大学院に進み、法学博士になりました。3期生には、埼玉県初の女性衆議院議員となった松山千恵子さん、女性初の税理士となった加藤愛子さんがおり、三淵さんと同じ4期生には、女性初の公認会計士となった後藤千鶴子さんなど、さまざまな職種の「女性第1号」が生まれていきました。

――本日はありがとうございました!

明治大学駿河台キャンパス アカデミーコモン

博物館情報

  • 女性法曹養成機関のパイオニア――明治大学法学部と女子部(大学史資料センター主催)
    • 会場:明治大学博物館(東京都千代田区神田駿河台1-1〔明治大学駿河台キャンパスアカデミーコモン地下1階〕)
    • 会期:2024年3月25日(月)~10月28日(月)
    • 開館時間:(月~金曜日)10時~17時(入館は16時30分まで)、(土曜日)10時~16時(入館は15時30分まで)※8月1日~9月19日の土曜日は休館
    • 休館日:日曜日・祝日(休日授業実施日は開館)、8月10日~16日
    • 観覧料:無料
    • 詳しくは、明治大学ウェブサイト明治大学博物館Xをご覧ください。
  • 「白雲なびく~遥かなる明大山脈~【番外編】「虎に翼」今週の解説」(毎週更新予定):こちらでは、村上一博先生が「虎に翼」について解説しています。

この連載をすべてみる