企画趣旨(大屋雄裕)/プライバシーは必要か?──「放っておいてもらう権利」としてのプライバシーの価値(松尾陽)(特集:古典は招く)

特集から(法学セミナー)| 2024.08.09
毎月、月刊「法学セミナー」より、特集の一部をご紹介します。

(毎月中旬更新予定)

◆この記事は「法学セミナー」836号(2024年9月号)に掲載されているものです。◆

企画趣旨(大屋雄裕)

「温故知新(故きを温ねて新しきを知る)」という言葉があるとおり、古典とは単に時代を経た書物のことではなく、現代の問題を考えるために必要な視点を再読のたびに与えてくれるような存在、そこで示された知見や一定の結論に至る思考過程が時代を超えた普遍性を持ち、同時代的な意義だけではなくそれを超えた影響を持つ著作のことだろう。今回、「古典は招く」という表題のもとに、法・政治にまつわるさまざまな古典的作品を取り上げ、その内容だけでなく現代的な意義について論じる企画を編むことができた。あるいは現代の若い読者にとっては古典だけでなくそもそも書籍自体に親しむ機会が失われてきているかもしれないが、具体的なテーマを提示し、それとの関連において古典作品に秘められた要素を位置付けることによって、あらためてその大切さ・面白さを伝える機会にできればと考えている。

定価:税込 1,540円(本体価格 1,400円)

「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的な事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度目は偉大な悲劇として、二度目はみじめな笑劇として、と」というのはマルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」1)の冒頭の一節だが、特に政治にまつわる歴史を振り返ってしばしば感じられるのは、ある種の必然性・法則性と偶然性の並存とも呼ぶべき性質だろう。長期的に見るならば、あるいはマクロの観点からは、たとえば小選挙区制を導入した国では二大政党制と政権交代のある政治が発展するといったようにそこには一定の法則性があり、ある種の必然に導かれて歴史が展開しているように感じられる。だが短期的あるいはミクロの観点に立てば、大きな流れを作り出す個々の事件・事象は当事者の性格や生活習慣、相互に持つ印象やさまざまな偶然の影響を免れない、その意味で偶発的・偶然的なものでしかないようにも思われる。

たとえばオリジナルのブリュメール18日のクーデターを考えれば、その中心人物であったシェイエスが信任し動員する武力として本来期待していたのはバルテルミー・ジュベール将軍だったと言われている。だが直前に発生したノーヴィの戦いで彼が戦死してしまったため急遽あてにされたのがナポレオン・ボナパルトであり、ジュベールと違って政治的野心を秘めエジプト遠征失敗からの地位回復を狙う人物であったことがその後の展開──新たに構成された統領政府におけるシェイエスの棚上げとナポレオン独裁の漸進的な確立──を決定付けることになったわけだ。一方では人間も一構成要素にすぎないような流れがあり、他方で人間の決定的な行動がその流れを変えてしまう二面性・矛盾が、非常に複雑で含蓄に富んだ対象を生み出しているということになるだろう。

同様に、我々が現在当然のものと考えている秘密投票──必然的にそれは投票用紙への記入という形を取らざるを得ないわけだが──についても、フランス革命期にかなりの論争があり、結果的に定着するに至ったものでしかないことが明らかになっている2)。議会における発言が公然と・みずからが何者かを明らかにし潜在的な批判に身をさらす形で行なわれ、当事者の責任を追及することが可能な形でなされることによってその真摯さが担保されていると考えるならば、秘密投票とはその可能性を失わせることによって有権者を無責任な行動へと誘引するものにほかならないのではないか、というわけだ。この観点からは公衆の面前で支持対象を明らかにする発声投票の導入が支持されたが、それに対しては当然のことながら投票行為が可視化されることによりさまざまな社会的圧力がそこに働くことが懸念された(たとえば特定候補者のために有権者の買収を試みる側からは、発声投票の方が明らかに好ましいに違いない)。

だが民主政はいかにあるべきかというこのような理念的対立とは異なる要素が、この議論に強い制約を課していたことも分かっている。それは、候補者の名前を投票用紙に書くという手法が要求する、識字率という問題であった。現代とは異なり識字能力がかなり限定されていた当時のフランスでは、秘密投票を導入することは責任をめぐる議論で一定のスタンスを取ることだけでなく、非識字層を有権者から排除するという副次的な意味を伴っていたのである。このことは当然ながら投票方法をめぐる論争に一定の影響を与えざるを得ないが、しかしその影響は理念的な次元において明確に観察できるわけではない──。

歴史的に発展し、現在では我々が当たり前のように感じている存在、たとえば国家・規制・選挙といったものについてもこれと同様に、実際には歴史的な経緯のなかで選択され形成されてきた制度であり、さまざまに異なる社会と状況のなかで偶発的に行なわれてきた選択の積み重ねという側面も備えている。その一部は大きな流れのままに現実化し、別の一部においてはミクロなできごとがその実現に決定的な屈曲をもたらすということもあっただろう。そしてそれらの過程の背景には、個々の場面場面において状況をいかに解決するべきかという問題について、あるいは特定の論者が孤独に抱え込む、あるいは時代と場所を共有する思想家同士の対立や相克という形で実現する、さらには時代を超えて発生する継受と反発の連鎖として理解されるような思想的な苦闘が存在したはずだ。制度であれ思想であれ、歴史を通じて学ぶとはそのような細部とそれらが織りなしていく流れのあいだにあるダイナミクスを読み取ることなのではないかというのが企画を立案したものの私見である。

さて本特集においては、必ずしもその見解を共有するわけではないだろうが(繰り返すが上記はあくまで筆者の個人的な思いである)、古典と現代の往還という狙いにふさわしい方々に執筆をお願いすることができた。テーマとそれを論じる著者の選定には、西村清貴さん(中央大学)との共同作業であたった。やや具体的に言えば、思想史的関心が中心にあり個々の古典やその作者たちに関する研究を進めてきた方々にあらためて現代的問題との関連を論じてもらうという側面(具体的には西村さんに加えて太田寿明さん・清水潤さん)と、むしろ現代的な規範理論を日常的には検討している方々にあらためて古典との格闘を試みていただくという側面(大屋に加えて松尾陽さん・三浦基生さん)をバランスよく企画に反映できるよう、特に前者の人選についての助力をお願いしたのだが、それだけに留まらず対象となる著作の全体的な配分──特に特定の国や時代に偏りすぎないように──や相互の位置付けについても多くの有益なご意見をいただいた。その意味で、本来ならばこの企画の中心は西村さんであり企画趣旨の紹介についてもご担当いただくべきだったのだろうが、私の方がやや年長であるという一事をもってこのような駄弁を弄するに至っている。

古典を紹介することを通じて、さまざまな制度が持つ偶有性と、しかし実際には特定の何かが選択され発展してきたことが示す必然性の双方とその関係について読者に考えてもらいたいという筆者の希望がかなうことを願っている。

(おおや・たけひろ 慶應義塾大学教授)

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脚注   [ + ]

1. カール・マルクス(丘沢静也訳)『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(講談社、2020年)。
2. 田村理『投票方法と個人主義────フランス革命にみる「投票の秘密」の本質』(創文社、2006年)。
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