弱い個人などいない。個人を弱くしているものがあるとすれば、それは社会である。— 最高裁旧優生保護法違憲大法廷判決を読む(蟻川恒正)
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月刊「法律時報」より、毎月掲載。
(毎月下旬更新予定)
◆この記事は「法律時報」96巻13号(2024年12月号)に掲載されているものです。◆
「戦後最大の人権侵害」。
2024年7月3日、最高裁大法廷は、特定の疾病・障碍を有する原告らに不妊手術を施す根拠法令となった旧優生保護法(1948年~1996年)の該当規定を憲法13条および憲法14条1項に違反するとする判決を下した。
1949年から1996年までの48年間に、約2万5千人の男女から生殖能力を奪った世上稀に見る国権による人格破壊の歴史を、判決後、主要5紙(読売、朝日、毎日、日本経済、産経)は、挙って、この言葉を使い、断罪した。
だが、この言葉には、あるよそよそしさ、こう言ってよければ、ある空空しさがつきまとう。「戦後最大の人権侵害」であるならば、それはもっと早期に是正が試みられていて然るべきだったのではないか。もし本当に「戦後最大の人権侵害」というのなら、該当規定が削除されてからだけでも既に四半世紀が過ぎた2024年に至るまで、最高裁が同規定を違憲と断ずる機会がなかったなどということが、どうしてありうるだろうか。そこには「戦後最大の人権侵害」を「戦後最大の人権侵害」と認知させない強力な磁場が働いていたのではないか。それどころか、今日、この国で、「戦後最大の人権侵害」という言葉は、(使い手の意図とは別に)その磁場の存在を人々の意識に上さないための符牒としての歴史的役割を果たしているのではないか。
これは、私一己にとっても他人事ではありえない。私が末席を穢す憲法研究者という職業集団は、この社会で個人の人権が蹂躙されつつあるときには、真っ先にその徴候を察知する炭鉱のカナリアでありたいと考えている者が多い集団であるはずである。だが、旧優生保護法下の強制不妊手術の問題に対して、憲法学の対応は、総体として全く機敏でなかった1)。特に私は、これまで「個人の尊厳」の研究に従事してきたにもかかわらず、この問題に注意を向けることが余りに少なかった。
脚注
1. | ↑ | 私の知る例外は、小山剛である。小山剛「人としての尊厳」判例時報2413=2414合併号(2019年)17頁ほか。 |