『痴漢を弁護する理由』(編:大森顕、山本衛)
弁護士・新橋将男――一〇月三日
事件の配点
今にして思うと、あの電話はいつもと違う鳴り方がした。
弁護士事務所には一日何十件もの電話がかかってくる。どこの事務所もそうだろう。セールスの電話や、どうでもいいような用件もある。残念な結果を伝える電話もある。無機質でいつもと同じ着信音の連続、その間隙を縫って毎日仕事をしているようなものだ。しかし、忘れられない事件のきっかけになった、あの電話は違った。
午後三時前、事務所の空気が少しだれた感じになる午後の時間帯にかかってきたその電話は、弁護士会からの当番弁護士の配点、つまり派遣出動の依頼の電話だった。電話を受けて初めて、その日が僕の当番弁護士の待機日だったことを思い出した。「新橋先生、いつものようにすぐファックス送りますんで」と言ってその電話は切れた。
当番弁護士とは、弁護士会が行っている取り組みの一つだ。
逮捕された被疑者に、警察署の中の留置場で面会する。これを「接見」という。それまで被疑者は警察官に取調べを受けている。時に取調べは長時間になる。被疑者はいつ外に出られるかもわからない。逮捕されてショックを受けない被疑者などいない。そこに弁護士が現れる。アクリル板越しに話を聞き、アドバイスをする。初回の面会は無料だ。弁護士には弁護士会から日当が支払われるので、被疑者は費用を負担する必要はない。一回限りのサービスだが、それ以降も弁護士に弁護をしてもらいたいという被疑者は、懐に余裕があれば、その場でその弁護士に弁護を依頼できる。弁護人として雇うだけのお金に余裕がない場合も、当番で接見した弁護士が、国から国選弁護人に選任されることもある。
当番弁護士との面会は、逮捕された被疑者が、自分の味方に接する初めての機会だ。当番弁護士のアドバイスが、その後の事件の方向性を大きく左右することもある。
***
ファックスに目を通す。逮捕日は今日。罪名欄には「強制わいせつ」と書いてあった。生年月日を見ると二十四歳のようだ。
「随分若いな」
思わず呟いた。性欲を抑えきれなくなった青年が路上で見知らぬ女性を襲ったか、それとも知り合いの男女で起こった酔余の末のトラブルか。
この紙一枚からは事件の内容については何もわからない。
どうせ被疑者本人から直接聞けばわかることだ。それに、どのみちやることは変わらない。大体は被害者と示談を試みることになる。刑事事件の多くは認め事件、つまり自分が犯罪を起こしたことを自白している事件だ。もちろん、被害者との示談というのはとても大事だ。手を抜いたことなどない。プロフェッショナルとして当然のことだ。それでも僕は、以前感じていた刑事事件に対する高揚感のようなものが、自分の中には二度と湧き起こることはない、そんな考えを振り切ることはできなかった。僕の頭にある言葉が浮かび、いつものように駆け回り始めた。
あの事件で駄目だったのだから。
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