『痴漢を弁護する理由』(編:大森顕、山本衛)
被害者・井藤果歩――一〇月九日
検察庁での動揺
九日の火曜日、授業が終わった後に私は、一人で霞が関の駅に向かった。
こんな駅に一人で来るのは初めてだ。中学の社会科見学で裁判傍聴に来たけれど、そのときもこんな街だっただろうか? 似たような建物が並ぶ中から、お母さんに教えてもらっていた検察庁の建物に入った。もう夕方で外は暗くなってきていたが、中に入ってもなんだか暗い印象のある建物だ。
***
「辛いことを思い出させるようで申し訳ありませんが、そんなに長くはなりませんので、ご辛抱くださいね」
その検察官は、ゆっくりと、そして丁寧な言葉で話し始めた。検察と警察とは違う組織だから、警察には話したかもしれないけれど、事件のことをまた一から説明してほしい……。
そう促されて話し始めると、思ったよりもスムーズに言葉が出てくる自分に驚いた。あの日以降、事件のことなんて思い出さないようにしていたのに。警察で女性の警察官に話をして、書類にしてもらって、自分の頭の中でもよく整理されているのを感じた。
検察官も、時折質問を挟むだけで、私の話に耳を傾けてくれた。そのうち、検察官の隣にいた女性が検察官の言葉をパソコンに打ち込み始めた。何気なく見ていた私は、場の空気にも慣れ、少し気持ちに余裕が出てくるのを感じた。
ふと、あの男が今どうなっているのか聞いてみようという気になった。
「あの、犯人は、なんと言っているんでしょうか?」
「…………」
検察官が、一瞬答えを悩んだような気がした。
「……それが、否認しています。えっと、否認っていうのは、つまり、自分はやっていないと、そういっています」
私は、一瞬耳を疑った。
検察官は、少し間をおいて、また書類を作成する作業に入った。
まるで私がそう話しているかのように、一人称で検察官の口から語られる物語、そして、それを女性が素早くパソコンに打ち込む音を聞きながら、急に涙があふれてきた。なぜかは自分でもよくわからなかったが、犯人の男に対する怒りというわけではないと思った。もちろん、あの男を捕まえた自分の行動を後悔しているわけでも、間違いではないかと不安に思っているわけでもない。私は、たしかに自分のお尻を触っていた男の手を掴んだし、そのまま電車も降りた。あの男の顔は二回も見ている。何より、あの男は電車降りたとたん逃げだした。大丈夫……私は間違ってない。
なぜ泣いてしまったのかは、自分でもわからないままだった。
検察官が困っているのがわかった。でも涙が止まらなかった。検察官は、泣いている私を困ったように見ながら、それでもゆっくりと書類の作成を続けていた。
私は、おそるおそるもう一度口を開いた。
「このあと、どうなるんでしょうか?」
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