『痴漢を弁護する理由』(編:大森顕、山本衛)
検察官・江藤恭介――一〇月四日
ありふれた事件
平成三〇年一〇月四日。朝。
さわやかな秋晴れ。
右手に日比谷公園を見ながら、官庁街の歩道を歩く。日比谷公園の木々の緑は濃く、秋晴れの空に枝を届かせんとばかりに茂っている。青と緑の二色は互いにその鮮やかさを競っているようだ。「清々しい」という言葉を絵にかいたらこうなるなと思った。夏の暑さはようやく通り過ぎ、ジャケットにネクタイを締めて通勤するサラリーマンがちらほらと見える。私もそんなサラリーマンの一人だ。いや、正確には、国家公務員。東京地方検察庁に所属する検察官だ。
僕は検察官四年目、ちょうど今年で三〇歳になる。所属は、東京地方検察庁の刑事部。刑事部というのは、逮捕された被疑者を取り調べ、被害者から事情を聞き、被疑者を裁判にかけるかどうかを決める部門だ。一度にたくさんの事件を抱え、毎日、次々と送致されてくる被疑者を取り調べる。妥協は許されない。被疑者に舐められてはいけない。毅然として取調べに臨まなければいけない。そのために僕は毎日スーツを着る。僕にとってスーツはまさに戦闘服だ。
東京は霞が関。二〇階建ての検察庁の建物の前で、もう一度ネクタイを締めなおす。エレベーターを上がって、四階。朝八時一五分。始業時刻の十五分前だ。僕は、いつものように自分の検察官室のドアを開けた。
「おはようございます!」
そうやって元気にあいさつするのは、いつも僕の日課だった。
***
「検事、新件です」
無機質な声で厚さ二センチくらいの書類の束を渡してくる。新しい事件の配点だ。僕はねぎらいの一言をかけて冊子を受け取る。表紙には、「強制わいせつ」と書いてあった。届けられたのは書類だけじゃない。この書類が届けられたということは、この事件の被疑者も、留置されている警察署から今この検察庁の地下に連れてこられている。
僕は表紙をめくる。事件の内容は、赤羽から新宿へ向かう湘南新宿ラインの中で、被疑者が、被害者のスカートや下着の中に手を入れて臀部から陰部付近を触るなどのわいせつ行為を行ったというものである。
「……また、痴漢か」
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