『痴漢を弁護する理由』(編:大森顕、山本衛)

一冊散策| 2022.11.16
新刊を中心に,小社刊行の本を毎月いくつか紹介します.

裁判官・和久田真実――平成三一年一月九日

誤判という深淵

マグカップを持った手が、わずかに震えている。さっきの法廷で右陪席の安西稔から注がれた視線のあまりの冷たさに、ポットから注がれたお湯の暖かさを感じられずにいる。

普段よりも広く感じる裁判官室で、私は寄る辺のなさを感じていた。安西は自分のデスクに座り、手元の書類に視線を落として、身じろぎもしない。裁判長も無言で目を閉じている。先ほどの法廷での証人尋問の光景を反芻しているようだ。壁にかけられた時計が淡々と時を刻んでいる。クリーム色の壁紙も、本棚にぎっしりと詰まった判例集も、私から体温を吸い取っていくようなよそよそしさを感じた。

「一度目に触られた時、触っていた手が被告人の手だと判断した理由っていうのは、あなたが見た瞬間に手が離れたから、ということのほかにないんですよね?」

私は、法廷で、被害者への補充尋問としてこう聞いた。

補充尋問とは、検察官と弁護人の尋問が一通り終わった後、裁判官がする質問だ。

裁判官になって五年目の私だが、この裁判体では一番「下っ端」の裁判官であり、法廷に向かって裁判長の左の裁判官席に座るので、「左陪席」と呼ばれる。左陪席の裁判官は、通例、三人の裁判官の中で最初に補充尋問をする立場にある。ためらいなく補充尋問ができるようになったのは、ここ一年くらいのことだ。裁判官になりたての頃、補充尋問の場面で「特にありません」と言って、当時の裁判長に叱られたこともあった。そんな消極的なことでは裁判官は務まらないと。

***

私のこの質問に対して、被害者である女子高生は、「はい」と言って力なく頷くだけだった。

「一度目の痴漢と二度目の痴漢の間はどれくらいの時間が空いていましたか?」

私はこうも聞いた。

被害者は「三分くらい空いていた」と答えた。

――三分――

三分あれば、一度目の痴漢をした犯人が、何食わぬ顔をして手をひっこめ、痴漢の痕跡を消し去ることが可能だ。私の脳裏に、真犯人の手が被告人の手と入れ替わる様子がよぎる。真犯人の口元が、思わず出た笑いにゆがむ。

私の足元には、大きくて暗い落とし穴がぽっかりと口を開けている。

――誤判――

裁判官としての人生を歩み始めてこんなにすぐに、私は、この恐ろしい深淵を覗き込むこととなった。這ってでもそこから遠ざかろうと、身をよじる思いに囚われてしまっている。だから私は聞いたのだ。どうしても、その瞬間の真実を知りたかった。

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